布製解体人形(第1章2節)
人形体験
ヌイグルミには格別な思い入れがないし興味もなかった気がするが、欧米ではテディベアという熊のヌイグルミを贈る風習があると聞いたとき、自分もいつか作ってみようと思ったことがある。「贈る」風習であり、「自作して」という限定的な意味合いはなかったのかもしれないが、なぜかそのとき自作することをイメージし、その風習というか伝統に倣うことが、何かしらの満足感を与えてくれるような気がした。
球体関節人形もいまや多くの人が作っている。本質的な作り方は皆一緒だろう。もう型はできている。新しさはない。だけれども創作意欲に駆り立てられる。僕自身も「どうやって作っているんだろう?」と興味をもち、これまたいつか作ってみたいと思い、作り方の本まで購入していた。が、実際に作るところまでには至らなかった。
ちなみに、僕のお気に入りの人形作家は天野可淡で、彼女の人形の写真集もいくつか蔵書にある。
球体関節人形に惹かれはしたが、硬質的なイメージが性に合わなかったのか、その次に僕が作りたいと思ったのは、与勇輝の布人形だった。先入観か何なのか、布のやわらかさが人形には必要不可欠、との偏見が僕の中にはあって、布人形の造形として、これだけリアルに作れればかなり理想的だった。ただ、惜しむらくは、「小さい」ということだった。
偏見と拘り
これまた偏見だが、人間の人形は等身大でなければ「なんか違う」という感覚が僕にはある。誤解を恐れずに言えば、小さい人形はおもちゃだ。しかし、そうは言っても、写真集の『フォトストーリー ニングル』(作=倉本聰 人形=与勇輝 撮影=宮沢嘉彦)のなかの妖精みたいなもの(ニングルというのは体長15センチの人間らしい)は、空想の存在として、ありといえばありで、なんと説明していいかわからないが、そこには所有欲を満たすリアルさを感じさせるものがある。
こういった僕の偏見というか、拘りは、シメノンドールを確立させるうえで明確な基準となっていった。たとえば、足の指はちゃんと5本なくてはならない。鼻の穴はなくても、口(口腔)は必要。リアルではなくても性器やお尻の穴がなくては不自然。言ってみれば、布人形はデフォルメされたマンガのようなもので、造形におけるディテールのリアルさでは、彫刻や粘土でつくる人形には絶対に勝てない。だからこそ抽象度を高めていく際に、その一定の基準、取捨選択、つまり妥協点が重要になってくる。
ヌイグルミ、球体関節人形、布人形と、ある意味真剣に作りたいとは思ったが、けっきょくどれも作ることはなかった。作り方だけ知って満足してしまったようだ。だが、このことが、シメノンドールをつくる基礎、または理想にもなっていったことは確かだ。それはたとえば、ヌイグルミのように頑丈で尚且つテディベアのように伝統的な人形として継承されたい、球体関節人形のようにバラバラにできる、布人形であってもある程度のリアルな造形美は確保したい、等々だ。