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等身大人形について

布製解体人形(第1章1節)

ピグマリオン

「人形」に関する情緒的な体験や経験を思い起こそうとすればいくつかは簡単に探し出せるだろう。しかしここではすこし格好をつけて知的な接点から語ってみたい。まずはギリシャ神話に登場するピグマリオン。

しかし、いくらピグマリオンが思いこがれても、相手は、生きた人間ではなく、冷たいただの石である。彼がどんなにその美しい唇に接吻しても、心を動かす気色は見られなかった。それでもピグマリオンは、まるで子供が人形でもあやすように、せっせと美しい着物をきせてみたり、お化粧をしてやったりした。こんなふうにすれば、相手もきっと喜んでくれるものと思ったのだろう。

いろいろな贈り物を買ってきてやったり、きれいな野の花をつんできてやったりもした。そして夜になると、ちょうど子供が人形をだいて寝床へつれていくみたいに、自分の寝床へだいていって愛撫するのであった。

(中略)

彼は神殿にやってきて祈りをささげた。

「愛の女神よ、どうぞわたしに、わたしのつくったあの像とそっくりの乙女を与えてください。」

しかし女神には、ピグマリオンのほんとうの気持ちがわかっていた。——あの若い男は、ほんとうは自分でつくったのあの像だけが好きなので、この世の女では、どんなに似ていても、愛することはできないのだということを。

引用元:山室静/著『ギリシャ神話 付 北欧神話』

これを書く前に、「ピグマリオン」についてネットで検索してみたが、自分の思っていたのと少々違った。なので本棚からむかし読んだ本をいろいろとあさってみた。で、ああこれだ、と思ったのが、山室静/著『ギリシャ神話 付 北欧神話』のものだった。

それによると、ピグマリオンはキプロス島の若い王で、なにより彫刻が好きだった。そして「大理石」を彫って理想の女性の像をつくった——とのことであったが、僕の記憶の中では勝手に、等身大の人形を作っていた、となっていたようだ。たぶん重い大理石の像を寝床に運んで一緒に寝るというのがイメージできてなかったからだろう。しかしまた「ピグマリオンコンプレックス」という言葉があるのを思いだし調べてみると、ウィキペディアには「狭義には人形偏愛症(人形愛)を意味する用語。心のない対象である『人形』を愛するディスコミュニケーションの一種とされる」とある。だから僕が「大理石の像」というより「等身大人形」と捉えていたとしても、あながち間違いではないだろう。

球体関節人形

人形といえば、大きいのと小さいのがある。どちらを好み、イメージするかは、人それぞれだろうが、個人的に衝撃を受けたのは、やはり大きいのであり、それはつまり「等身大人形」であった。たぶん、きっとサブカルチャーに興味のある人なら、澁澤龍彦に行きつくだろう。僕もいくつか彼の本を読み、彼の書斎を写した写真、そこにたたずむ裸の少女人形を見て、なんだこれは、と初めてそこで等身大人形に興味をもったような気がする。そして、その部屋にあった人形の正体は、四谷シモン作の球体関節人形だった。

澁澤龍彦の部屋の人形
引用元:『太陽 澁澤龍彦の世界』

僕の本棚には『四谷シモン 人形愛』という写真集(写真=篠山紀信 監修=澁澤龍彦)があり、その表紙には「PYGMALIONISME」とある。それでまたひとつ合点がいった。ちなみにPYGMALIONISME(ピュグマリオニズム)というのはピグマリオンコンプレックスの学術的用語であり、ピグマリオンコンプレックス自体はただの和製英語らしい。

四谷シモンの人形
引用元:『四谷シモン 人形愛』(写真=篠山紀信 監修=澁澤龍彦)

澁澤氏が紹介していた、球体関節人形の源流でもある、ハンス・ベルメールにも僕は興味をもち、彼のみずから写しだす人形の写真(『ハンス・ベルメール写真集』アラン・サヤグ/編・著)——少女の裸体を人形化し、バラバラにして適当に組み合わせたような等身大の人形——に、猟奇的な畏怖とオブジェとしての美しさを感じた。そう、人間の体は美しい。とくに少女期の美しさは一瞬であり、それを二次元的な絵画としてではなく、三次元的な物体としてとどめおこうとする行為こそ、人形の本質であり、人形の魅力ではないのか、という気がしてきた。

ハンス・ベルメールの人形
引用元:『ハンス・ベルメール写真集』アラン・サヤグ/編・著

人形は年を取らない。老けない。そして人形は、所有することができる。この所有において、満たされる快感、快楽がある。それは、現実の生身の人間相手ではけっして叶えられない、時を止めて他者を〈完全支配〉する行為——。だからこそ人は等身大人形を以ってその代わりとする。

人形愛者

「猟奇」でなくとも、人形愛に目覚め、取り憑かれた者の欲求は、けっして人形一体ではとどまらないものではないだろうか。皆が皆そうなるとは断言できないけれど、所有欲、支配欲を満たした結果、けっきょく何体もの人形を狭い部屋の中に並べることになる。むろん人形愛にもそれぞれあるだろう。たとえば、目で愛でる飾り人形か、手で触れる抱き人形か。等身大人形に興味をもつ者であるならば、圧倒的に後者であるような気がする。

しかし等身大人形を、若いピグマリオン王のように、寝床に連れ込み愛撫をする対象とした場合、はたしてそれは生身の人間の代替品なのであろうか。さきほど「等身大人形を以ってその代わりとする」と書いたが、それは、完全なる支配が、人形では代替できても、人間では代替できないからであり、人間の代替品として人形を、という意味ではない。また愛の女神も、ピグマリオンにたいして、「あの若い男は、ほんとうは自分でつくったのあの像だけが好きなので、この世の女では、どんなに似ていても、愛することはできない」と見抜いている。ここに、一般の人と人形愛に目覚めた人の認識に齟齬のあることがわかる。一般的には、人形(等身大人形)は人間の劣化代替品にすぎない。が、人形愛者にとってはそうではない。

かといって、人形に命が与えられるのを、喜ばないわけでもない。最後にはピグマリオンも歓喜している。

ピグマリオンの愛はまったく妙なものだった。愛のことなら、一から十まで知っているつもりのアフロディテも、ついぞピグマリオンのような男に出あったことがなかった。こんな愛の願いをきいたのも始めてだった。

(中略)

とたんに彼はぎょっとしてとびしさった。つめたい大理石の像がなにかほのあたたく感じられたのだ。気の迷いだろうか、それとも本当にこの像に血がかよってきたのだろうか。……ピグマリオンはあやしみながらも思いきってもう一度像をだきしめて、唇にキッスした。すると大理石の唇がだんだんあたたかくなってきたばかりか、固い大理石の肌がみるみるやわらかくなってきたではないか。手首をにぎってみると、ときときと脈がうっている。

「ああ、アフロディテさま、ありがとうぞんじます!」

ピグマリオンはこういって床にひれふした。

引用元:山室静/著『ギリシャ神話 付 北欧神話』

個人的には脳科学的に解釈しているので、人形愛にたいしては、幻想や信仰またはオカルトめいた感情はいだいていない。だから僕自身が人形愛者かといえば微妙なところではあるが、創作者としてまったく理解できないわけでもない。そのへんに関してはまたいろいろとあるので、べつの機会にでも語ろうと思う。

最後に余談ではあるが、「ピグマリオン効果」という言葉があって、それは、親や教師が子供を自分の期待通りに育てるものである。「期待通りに」というと語弊があるので、もっとわかりやすく書けば、親や教師の〈期待に応えようとする子供の心理〉をうまく利用すると、たとえば学業成績をアップさせる効果がある、というものである。また、ピグマリオンが理想の女性を創造していたように、子供を——いや、少女や無垢な女を、自分好みの女性に育て上げる男性の願望が「ピグマリオン」という言葉のなかには含まれている。

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