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抱き人形の幸せ感

布製解体人形(第1章4節)

幸福感を与えてくれるセロトニン

抱き枕というと、大きくて細長いちょっといびつな形の枕をイメージし、世間一般的にもそれなりに認知されてはいるが、僕はその魅力についてまったく理解していなかった。抱き枕なんて、せいぜいキャラクター絵の入った抱き枕カバーを見て、そういうのが好きな人たちが買うのだろう、という認識だったのだ。

が、しかし。自分が最初に作った等身大のタオル人形を抱いたとき、その心地よさ、安らぎに、衝撃的なもの、尋常ならざるものを体感し、一気にその認識を改めた。人間の形をしているというだけなのに、なぜかふかふかのクッションよりはるかに心地いい。あまりにも心地よすぎて長いこと抱いていると、のぼせる。ちょうどお風呂で気分よく湯船に浸かっている感じだ。

0号を抱きしめる19号

人は幸福感を感じているとき、脳内に「セロトニン」というものが分泌されているらしい。抱き枕も、ただ頭をのせる枕として使うのではなく、抱きついて眠ることで精神安定や癒やしの効果があり、そのときセロトニンが分泌されているとのこと。だから僕の場合もあのとき、等身大のタオル人形を抱くことで、大量のセロトニンが出ていたのだろう。そしてまた、逆にセロトニンが不足してくると、人は精神的に病む。躁状態や鬱状態になったりすることもある。つまりそれほどセロトニンとは、日々の生活や人生の在り方に大きく関わってくるものなのだ。

人を自堕落にする危険性

猿やチンパンジーの母親が、死んだ幼い我が子を抱いたまま放さず、いつまでも持ち運んでいるという話を耳にしたことがないだろうか。それを聞いて愛情の深い母猿だなと思いがちだが、じつはそうではないように思われる。これもセロトニンの効果で、抱く行為自体に、精神の安定、安堵感があり、常習性があるのだ。よくアニメなどで精神を病んだ女性や少女を描くとき人形を持たせているが、あれも、思い出の品というより、時々抱きしめるための精神安定剤として、人形が必要なのだろう。

21号と22号を両脇に抱えて安らぐ19号

そのうち抱き人形は、精神を病みやすい傾向にある現代人を、救うことになる。といったら大げさに聞こえるだろうけど、個人的にそういう未来が訪れるような気がしないでもない。希望的観測かもしれないが、これから等身大の抱き人形が広く一般的に認知されていく。コスプレ文化ともども身近な日常生活のなかに入り込んでくる。たぶん。ただし、「人をダメにするクッション」と呼ばれるものと同様、抱き人形には、人を自堕落にするという危険性を孕んでいる。一日中抱きしめながら幸福感に満たされ、無為に時を過ごすことができてしまうからだ。

愛しいものを愛でる文化

だがそもそも、なぜ、抱き人形を抱くと脳内にセロトニンが分泌し、幸福感を味わうことができるのだろうか。きっとこれは本能的なものだろう。たとえば、母親が、幼い我が子に母乳を与えたり、ある程度成長するまでちゃんと面倒を見、その身を守ってやるための、ご褒美として用意されているもの。

それを実感したのが、身長が130センチ台の人形を作ったときだ。抱いてみると、最初にタオル人形を抱いたときのような幸福感を感じることができなかった。原因は、愛おしさみたいなものがあまり感じられないからだ。どうやら抱く人形の大きさによって、感じ方に差が生じる。タオル人形は120センチ。幼稚園児から小学校低学年の児童くらいだ。もちろん130センチ台の人形に愛しさを感じないわけではないが、それよりもなにか存在感のほうが増している。そして140センチ台の、とくに男の子の人形を作って抱いたときには、ほとんど存在感のみだった。

結局どういうことかというと、早い話が「子離れ」だ。子が成長するにつれ、子は親離れ、親は子離れしなくてはならない。だから子供の体が大きいと抱いたときのセロトニンの分泌量が減っていて、抱くことによる幸福感も少なくなっていき、しぜんと子離れできるようになっている、という感じだろうか。

21号をノートパソコンの台にして、後ろからは22号に抱きつかれている19号

しかし140センチ台でも女の子として設定した人形には、愛しさが感じられる。それは男の子と違って、か弱い女の子はまだ守られるべき存在である、との深層心理が働くからだろうか。少なくとも大きな男の子の人形は可愛がって抱くようなものでもない。しかしながら「慣れ」の問題もあって、140センチ台の男女の人形を試験的に抱き枕として利用していたら、男の子の人形でも癒やし効果のあるものとしてふつうに使用できるようになっていた。

意識しなければ、なんら特別な感情もわかない。そう思うと逆に、個人的にいまシメノンドール1号から18号まではドールコミックのなかで、人格や自意識のあるキャラとして動かしているので、かなり意識するようになっている。だからか、勝手に抱くと怒られそうな緊張感さえある。これはもはや偶像崇拝みたいなもので、僕自身が人形のなかにある魂を現実のものと見なしてしまっているようだ。

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